『1Q84』 文庫

村上春樹『1Q84』文庫化記念特集 「波」2012年4月号より

青豆とその時代

杏(モデル・女優)

 村上春樹さんの長編小説は、私をいつもわくわくさせてくれます。『ねじまき鳥クロニクル』全三巻を読んだのは仕事で訪れたロンドン。読み始めたら止まらなくて、撮影の合間はもちろん、ホテルのお風呂でも読み続け、二日で一気に読んでしまった記憶があります。夏目漱石の小説もそうですが、村上さんの小説は海外で読むと、とてもしっくり来る感じがするんです。『ノルウェイの森』はヨーロッパに向かう飛行機の中で夢中で読みました。読んでいる最中に、機内のモニターにNorwayの地図が現われた時は、小説の世界とシンクロしているような気持ちになりました。
 二〇〇九年五月に『1Q84』が出た時は東京にいて、とにかく出版が待ちきれなくて、発売後すぐに読み始めました。私はJ-WAVEでBOOK BARという本の紹介番組をやっているのですが、リスナーからの反応がすごくビビッドで驚いたのを覚えています。ランキングではずっと一位で、文学が起こすムーヴメントを初めてリアルタイムで感じました。カフェで『1Q84』を読んでいると隣りの人も読んでいたり、電車でも読んでいる人をたくさん見かけたり、社会的な広がりを感じたというか、一冊の本についてみんなで語り合って楽しめることが、私のような本好きにとってすごく嬉しいなと思いました。たとえば1Q84がIQ(アイキュー)84に読めたり、他の言語ではどう発音するのかとか……。いま気がつきましたけどQを小文字のqにすると、「1q84」で、9とqは似ていますから英語圏でも通じますね。こんな風にタイトルでも、語り合う楽しみがある小説ってすごいと思う。
 私は一五歳まで世田谷区の三軒茶屋に住んでいて、青山までバス通学していましたから、小説の冒頭に出てくる三軒茶屋付近の風景を想像しながら、一気に『1Q84』の世界に入り込んでしまいました。いまでも、実際にその場所に行ったら、「Qの世界」に行っちゃいそうで怖いです(笑)。
 気になる登場人物は、やはり青豆です。村上ファンの方にはおこられてしまうかもしれないけど、友だちからは「杏ちゃん、青豆っぽいよね」とか「似てるね」とか何度か言われました。主人公としてとても魅力的だと思います。ベージュのスプリング・コートとかグリーンのウールのスーツとか、服装がていねいに描写されていて、見た目がすぐ浮かびます。映像化したら、いったいどうなるのだろうと想像しながら読んでいました。もう一つの小説の軸である天吾の章には謎の少女ふかえりが出てきますが、どうしても青豆が強烈で、圧倒的な迫力がありますね。『1Q84』が映画になるなら、ぜったい「青豆」をやってみたい。そのためには、ヤナーチェックを聴きながら筋トレやったり、拳銃を練習したり、いろいろ頑張らなきゃいけませんね。ハードボイルドだけど、きれいな映像になるだろうし、めちゃくちゃかっこいい映画になると思っています。二つの月も見てみたいし……。
 青豆以外では、麻布の老婦人のボディガード・タマルがいいですね。硬派だけれど物静かでチェーホフを愛読するタフな男。BOOK3に、「腎臓を潰されると一生痛みを引きずることになる」とタマルが相手を脅かす冷酷なシーンがあります。この描写は、私自身が腎臓を痛めたことがあるので妙にリアルで印象的でした。小説的には牛河を忘れてはいけませんが、なぜかタマルは気になるんです。
 青豆がすべり台のある夜の公園を見つめ、月を見上げるシーン。その場面まで読み進んで行くと、青豆と天吾は、1Q84年の世界でもう一度めぐり逢って幸せになってほしいと願わずにはいられません。物語にピリオドを打たない終わり方も素敵だと思いますが、明かされない謎もあるし、BOOK4があると嬉しいなと個人的には思っています。
 この小説に出会って、自分の生きている世界って確証があって成立している訳じゃないんだなという感覚を持つことができました。あるかもしれないし、ないかもしれない世界……。『1Q84』を読んでいる時には、私はよく夢を見ました。「想像しうることはすべて現実に起きうることだ」という科学者の言葉がありますが、どこかにパラレルワールドとか枝分かれした宇宙ってあるのかもしれないと思える、そんな世界を文章で構築した村上春樹さんはすごいと思います。
 なんで自分は存在しているのかと疑問を持ったり、現実の社会を見つめ直すには、少しだけ過去の「一九八四年の物語」のほうがいいのかもしれませんね。身近でとてもリアリティがあります。一九八六年生まれの私が知らない東京、青豆が生きる一九八四年の魔都・東京は、何が起こっても不思議ではない時代だったのでしょうか。